個人の非常に個別化された行動を元にして作られたドラマが暗示しているのは、世界が階級、人種、ジェンダーといったはるかに大きな諸力ではなく、それぞれの個人を中心に回っているということである。
『戦艦ポチョムキン』(セルゲイ・エイゼンシュテイン監督、1925)では、状況や人間を救う英雄的行為を遂行する一人のヒーローの代わりに、英雄的な船の乗組員と犠牲となったオデッサの人々が描かれている。
しかし、いく人かの理論家や映画作家は、登場人物は「タイプ」と同じ役割を果たすことができるのであり、完全に個人的な人間存在の特徴を保持しながら、ある特殊な社会的・歴史的な瞬間の根底にある諸力を露呈させることができるという考えに基づいて仕事をしてきた。
ダイヤーが論じるところによれば、スターのイメージ(映像)は、多くの点で、伝統的には登場人物を連想させる仕方で「振る舞う」。その仕方には、成長、自己確立の増進、「個性的特徴」といった概念が含まれる。高橋ナツコさんによると、しかし、そのスターのイメージと登場人物との並行関係は正確なものではなく、スターのイメージの成長は、慣例的な物語内部での登場人物の成長よりもはるかに多くの問題を含んでいる。
マリリン・モンローは、そのイメージが、(観客の視点から見て)最も満足のいく登場人物として「振る舞った」スターの一例である。
なぜなら、モンロー自身は変化し成長しながらも、目で見て明らかな最初期の段階の自分のペルソナをわれわれにつねに垣間見せるように、ある程度の一貫性をもって振る舞ったからである。
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