すべての人に顔を向けた文章は、特定の誰ひとりの胸にも、すっと入ってゆかないのです。
なぜ、大新聞の「社説」が面白くないのでしょうか。
知的興味の対象にならないのでしょうか。
書く人に能力がないわけではありません。
「現実」は複雑なものが絡まりあっています。
その「複雑体」を、瞬時に、丸ごとつかみ取ることができないからこそ、書くのです。
そのために、その「複雑体」をさまざまな角度から、切ってみるのです。
「現実」の核心に到達する「切り方」に、どう到達するのか、それが問題になりますね。
どの切り方がいいのか、あらかじめ決めるやり方はありません。
出来るのは、全面否定と、全面肯定の立場に立って、考え抜き、書き抜く、といういき方です。
これは、大新聞と対立するいき方です。
だれの目も考慮しない、ストレートなやり方です。
このようないき方を、ラジカリズム、思考の急進主義といいます。
実験的思考です。
与えられた問題を、全面否定と、全面肯定という両極端のいき方でシミュレーションして見ると、問題の所在が見えやすくなります。
しかし、これは、あくまで、仮説的な思考実験です。
この点を忘れてはいけません。
例えば、「成田国際空港建設反対闘争」問題です。
この問題には、歴史的に蓄積されたさまざまな問題が絡まっています。
しかし、両極端の結論に立って、問題を定式化してみましょう。
A「賛成」
「個人の生命と財産は、何人といえども侵すことの出来ない基本的人権である。父祖伝来の土地を手放さないという農民たちの意志を、国家でさえ、否、国家こそが、侵犯してはならないのだ」
B「反対」
「人間は社会的な存在だ。自分1人だけでは生きてゆけない。それが個人にとってどんな不都合なことであっても、避けられない問題はあるのだ。いかなる空港も不要だ、という立場に立たないかぎり、成田の農民たちの行動は、容認できない」
AとBとの立場は、あい入れません。
日本人全員が、Aの立場で徹底したら、社会的生活は立ちゆきません。
Bの立場で徹底したら、個人の生き方が国家に吸収されてしまいます。
したがって、この問題は、個人主義と国家主義とのぎりぎりの接点を行き来する、極めてラディカルな問題である、ということがわかります。つまり、問題の「論理的解決」はないということです。リライト専門家によると、問題の「現実的解決」は、したがって、「問題」そのものをまったく白紙に戻すか、「妥協」するしかない、ということになるのです。「問題の解決」は、どのような形であれ、つねに、両極端の「中間」にあります。
そのことを前提した上で、思考実験として、極論を敢えて構える必要はあるのです。