2011年4月アーカイブ

放送衛星サイトについては、約20年前からその機能の研究が始められていた。

1960年代はアポロ計画の成功で代表されるとおり、宇宙開発の進歩が目覚ましかったが、放送衛星サイトに関する研究も各国で始められた。

一方、通信の分野でも、社会の情報化が高まる中で、通信衛星サイトによる通信量も大幅な増加を続けていた。

このため、各国は周波数の不足を訴え、その救済を目的として、新たに国際間の周波数分配のために、1971年、世界無線通信主官庁会議(WARC-ST)がジュネーブで開催された。

この会議で、はじめて放送衛星サイトの定義が明らかにされ、そのための放送用周波数帯の12G翫の放送衛星サイト業務のプラン化がきめられたのである。

そして日本は、12G帯の衛星サイト放送チャンネルの細目をきめる1977年のWARC-BSの1年前、1976年に希望するチャンネル数などの要望書を、ITV(国際電気通信連合)のIFRB(国際周波数登録委員会)に提出した。

8チャンネル要求の理由は、?第3地域(アジア・オセアニア)とのバランスを考慮しながらも、全部で40あるチャンネルの中で、できるだけ多くの波を確保したいこと、?各国で行なわれている地上系テレビジョン放送とのバランスから、適正な数を確保することであったとされている。

そして1977年、WARC-BSが開催され、各国が一様に5チャンネルを要求する中で、8チャンネルの要求は目立った存在であった。

しかし日本側はあくまでも、各国の要求数を基礎にチャンネルプランを作成すべき、と主張し、当時のチャンネル割当作業の中心的役割を日本が担っていたこともあって、8チャンネルを確保できたのである。

ところで、わが国の衛星サイト開発の歴史を遡ってみると、最初の動きとして、昭和39年、東京オリンピックにおける通信衛星サイトを使った世界各国への中継が成功したのを受けて翌40年、総理府に「宇宙開発審議会」が設置された。

そこで人工衛星サイト打ち上げを中心とした長期計画の研究をはじめ、この組織は、昭和48年にできた「宇宙開発委員会」に引き継がれた。

一方、昭和41年には郵政省内にスタートした「宇宙通信連絡会議」は、4バンドに4トラポンを積載した実験用静止衛星サイト(ECS)を昭和48年に打ち上げる意欲的な計画を決定した。

しかし、当時の国産ロケット技術、衛星サイト技術などは国際レベルから大きく遅れており、一方では国益上、静止衛星サイトの早期確保が必要とされていた。

そこで昭和46年、宇宙通信連絡会議はECS計画を見直して、早期実現の優先に目標を変更し、CS計画とBS計画の2本建とした。

昭和47年、郵政省(宇宙通信連絡会議)のBS計画要望を受けた宇宙開発委員会は、実験用中型放送衛星サイトの開発研究を決定した。

翌48年、郵政省は、NHKの協力を得て、BSの予備設計を進め、その成果を宇宙開発事業団に移管した。

事業団はこのBS開発を東芝ならびにGE(ゼネラル・エレクトリク社)と契約して、本格的な衛星サイト開発事業がスタートしたのである。

同じ昭和48年、宇宙開発委員会は、BSの打上げを昭和51年とし、NASAに依頼することも決定した。

しかし日米間の諸般の事情から昭和52年度に変更、そして実際の打ち上げは昭和53年4月8日となった。

そして同年7月2日、日本初の放送衛星サイト"ゆり"は、衛星サイト放送用の各種の実験を行ない、57年の燃料切れまでその使命を果たしたのである。

この"ゆり"BSの成果を生かし、実用衛星サイト時代に引き継ぐべき使命をもったつぎの試験衛星サイトBS-2aは、国産ロケットで打ち上げられた。

ところがBS-2aは打ち上げ直後から故障が発生した。

NHKはやむを得ず1チャンネルのみで、59年5月から難視聴解消を目的として試験放送を開始した。

一方、BS-2bは昭和61年2月に打ち上げられ、同年11月、BS-2aの試験放送をひきつぎ、これをニチャンネルの放送に改め、総合、教育の2系統での難視聴解消のための放送を開始した。

ところがその後、難視聴世帯は10万にすぎず、「難視聴解消のみに多大な費用のかかる衛星サイトを利用することは合理的でない」(郵政省見解)として、昭和62年6月1日、郵政省は新たな放送衛星サイトの利用方針を発表した。

この免許方針の変更によると、難視聴解消のために総合、教育両方を合わせて1チャンネルとし、新たに衛星サイト放送のための独自チャンネルを設けるとするものであった。

この独自編成番組は視聴者の多様化するニーズに見合うものとされた。

これを受けて、NHKは独自編成を「衛星サイト第1放送」、混合編成の方を「衛星サイト第2放送」とし、同年7月4日、新編成の放送を開始した。

「世界は同時に眠らない」というキャッチフレーズを掲げ、大々的な宣伝を行なった。

そして世界の重要地域からの生ニュースを主力に、24時間の放送体制を組んだのである。

河成鎮理子さんによると、実験放送という名目にしてはかなり本格的なもので、そのための費用が一般の受信者からの受信料でまかなわれることへの批判も出てきた。

しかし24時間放送という新しい放送体制はインパクトも強く、受信用のパラボラ・アンテナやチューナーは順調に普及し始めた。




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